大唐人神輿の由来
唐人町は加藤嘉明が松山城築城に際してつくった。
町の名の起こりは、秀吉の朝鮮征伐で嘉明も参戦したとき、連れ帰った捕虜を住まわせたことによるという。嘉明は、松山城築城以前に松前城(伊予郡松前町)を構えていたが当時はここに唐人町があり、松山城完成とともに町を城下に移転させたものだともいう。
唐人町は物資が搬入される町として栄えた。町は一丁目から三丁目までで一丁目は今の新立町で二丁目・三丁目と区別されていた。現在大唐人と呼ばれているのはこの二丁目・三丁目であるのではないかと思われる。
この二丁目・三丁目が現在の三番町1,2丁目・千舟町1丁目(1部)・勝山町1丁目(1部)・永木町1丁目(1部)錦町(1部)であり、昔は現在の大街道周辺が小唐人と呼ばれておりこれは唐人町から別れたためであり江戸時代より大唐人と呼ばれた。
しかし現在では秋祭りの時に『大唐人』・『小唐人』・『北小唐人』の呼び名がしのばれるだけである。